◆ ジャーメインとマイケル ➍ Word To The Badd !! - 前編 - 弟マイケルに向けた愛憎Song なぜジャーメインはこの曲を作ったのか!? [ジャーメイン・ジャクソン]
ORiGINAL 2010.7.20Upに加筆、修正
ジャーメインとマイケルの関係を曲に焦点を当てながら紹介する4回目。今回は91年、LAFACEレーベルに電撃移籍をし発表されたアルバム『You Said』からのシングル曲、当時兄ジャーメインとマイケルの確執が大きく取り上げられた超問題作「Word To the Badd」です。
まずここまでの2人の活動を振り返ります。前回も紹介した1984年は、ジャーメインがジャクソンファイブ時代から在籍していたモータウンから離れ、アリスタレコードからソロアルバムを発表します。レーベルも総力を挙げてジャーメインを支援。良い楽曲も集まり、兄の新しい門出を支援するべくマイケルも参加。ホイットニーヒューストンのお披露目もされる。アルバムはゴールドディスクとなりR&Bのアルバムチャートでも1位となる。
ジャーメインとマイケルの関係を曲に焦点を当てながら紹介する4回目。今回は91年、LAFACEレーベルに電撃移籍をし発表されたアルバム『You Said』からのシングル曲、当時兄ジャーメインとマイケルの確執が大きく取り上げられた超問題作「Word To the Badd」です。
まずここまでの2人の活動を振り返ります。前回も紹介した1984年は、ジャーメインがジャクソンファイブ時代から在籍していたモータウンから離れ、アリスタレコードからソロアルバムを発表します。レーベルも総力を挙げてジャーメインを支援。良い楽曲も集まり、兄の新しい門出を支援するべくマイケルも参加。ホイットニーヒューストンのお披露目もされる。アルバムはゴールドディスクとなりR&Bのアルバムチャートでも1位となる。
ジャーメインは、86年にアリスタから2枚目のソロ作『Precious Moments』を発表。
ここからシングルとしてスティーヴィー・ワンダーと共作した「I Think Its Love」がスマッシュヒット。ホイットニー・ヒューストンとの4曲目のデュオ「If You Say My Eyes Are Beautiful」もヒット確実のシングル候補曲としてありましたが、なぜかシングル化されません。個人的には、ジャーメインのライター、ボーカリストとの魅力が満載の大人のアルバムで、彼の最高傑作アルバムだと思っていますが、シーンには大きなインパクトは残しませんでした。
一方、マイケルは、87年に『BAD』を発表、まさにKing Of Popとして前人未踏の領域に達します。『スリラー』に続くこの『BAD』の世界的な成功で、ある意味マイケルはジャクソン兄弟からの呪縛を解かれたように思います。そして、ここからマイケルの孤独感も増していった気もします。
89年、ジャクソンズは『2300 Jackson Street』を発表。当然のごとくここにはマイケルはいません。マーロンも脱退しています。マーロンも脱退したというのは当時驚きでした。
初めて4人編成となるジャクソンズのアルバムですが、リードのほとんどはジャーメインがとり、実質ジャーメインのソロアルバムのような作品になっています。マイケルはジャクソンズから離れましたが、このままではジャクソンズは終わってしまうと危機感を持っていたのが他ならぬジャーメインだったのです。
実際、ジャーメインはアリスタでの3枚目のソロアルバムを製作していたと思うのですが、そのソロ作は、アリスタ社長クライブ・デイヴィス自ら指揮をとっています。ジャーメインも、ブレインのマイケル・オマーティアンらと曲を制作していたと思うのですが、クライブのイメージ合わなかったためかアルバムの収録は見送られ、そのはじかれた曲群をジャクソンズの作品にもってきた感じです。
『2300Jackson Street』は、オマーティアンとの作品、当時のR&BのトップProducer、LA&BABYFACE、Teddy Rileyも招いた充実作ですが大きなヒットにはならず、これ以降ジャクソンズのアルバムは出ていません。
ここではジャーメインのカラーにあうボーカル主体のブラックコンテポラリーな都会的な作品がならぶ。この辺はクライブの考えだと思います。そしてジャーメインのアリスタ最初のアルバムのように結果をきっちり出すクライブ・デイヴィス。ここからシングル「Don’t Take It Personal」がR&Bで1位を獲得します。その勢いに乗って翌年来日公演もしています。おれが横浜で、前を歩くジャーメインの肩を叩いて日本語で「サインしてください」って頼んで完全無視をくらったのもこの時だぁ。
マイケルはクインシーも自身から切り離し、当時のブレイン、ビル・ボットレルやブライアン・ローレンらと共に楽曲を作り上げていましたが、それだけでは満足した仕上がりにならず、外部プロデューサーの起用に動きます。
当時のR&Bでは、機器の進化により、いくつかのプロデューサーチームが斬新で質の高い楽曲をシーンに送り込んでいました。R&Bだけでなくポップフィールドでも、ヒットを連発していたのがジミー・ジャム&テリー・ルイス、LA&BABYFACE、テディー・ライリーでした。実際、マイケルはこの3大プロデューサーの全起用を考えていたようです。そして最高のサウンドを結集させようとしていました。マイケルはエゴイストとは思わないのですが、仕事、アルバム制作になると、その心優しい人格が変貌するかのように、プロ意識全開になるように思います。そこに甘えや優しさはありません。
そんな中、最終的に『Dangerous』のメインプロデューサーになる、テディー・ライリーはマイケルからお呼びがかかり、驚くというよりビビッたみたいですが、すぐにかけつけます。そして「Jam」「In The Closet」「Remember The Time」という『Dangerous』の核となる曲を作り上げます。思うに、テディーは当初『Dangerous』のメインプロデューサーではなく、起用するプロデューサーの一人だったと思うのですが、他のプロデューサーとの曲がマイケルの求める水準になく、再度テディーを呼び寄せ、最終的にテディと多くの曲を作り上げ『Dangerous』の完成にいたったのだと思います。
90年代に入り、80年代の勢いはなくなりますが、ジャネットとの仕事を中心にやはりTop Producerの位置をキープしていたジャム&ルイスの起用も考えます。ただジャム&ルイスは、90年に入り自身のレーベルPerspectiveの設立とその活動に時間をとられ、マイケルのプロジェクトに参加できる状態ではなかったのだと思います。ジャム&ルイスは、アーティストとじっくり話し合って作品をつくるため、即席ラーメンのような曲は作れない。ましてやマイケル・ジャクソンというパーソナルを相手にしては時間を要すのは当然。今回のアルバム参加は見送られ、次作アルバム『History』で組むこととなります。
そしてLA&BABYFACEです。当時、この3組の中で一番のっていたのは彼らでした。(メインBlogでのProducerのカテLA&BABYFACRE特集を参照下さい)私はR&B好きなので、LA&BABYFACEのSOUNDにもめちゃはまっていました。
彼らも実は、この時期LAFACE(ラフェイス)レーベルを設立、外部アーティストからのプロデュース依頼も殺到しており、実際マイケルのプロジェクトを受ける時間はなかったと思います。さらにこの頃、ラフェイスレーベルからの第2弾アーティストとして秘密兵器的な男が控えていました。それが兄ジャーメイン・ジャクソンだったのです。
当時、私もアリスタレコード傘下とはいえ、レーベルを移籍してラフェイスからジャーメインが登場するとは予測不可能でした。めちゃ喜びましたけど。LA“アントニオ”リードとBabyfaceもジャーメインをラフェイスレーベルの起爆剤として考えていたと思います。
レーベル最初のアーティストは、あえて無名のダミアン・デイムをもってきて、万が一このアーティストがこけたとしても、ジャーメインで挽回できるという読みがあったと思います。ですからジャーメインのアルバムの失敗は許されませんでした。それは、このアルバムにLA’FACEレコードのスタッフからアーティストまでが総動員されている事からももわかります。Babyfaceもほとんどの曲でペンをとり、さらにデュオとしても参加しています。
そんな中、LA&BABYFACEは、ジャーメインとレコーディングしている最中に、Kingのマイケルからお呼びがかかるのです。マイケルも、ラフェイスが、兄のジャーメインとアルバムを制作していたのは知っていたと思います。それでもある意味、自身の最高のアルバムを作るためにLA’FACEを呼び寄せるのです。そして、Babyface側も、それを受けるのです。受けちゃうのです。彼らは、ジャーメインには詳細は伝えず、マイケルの自家用機でネバーランドへ向かうのです。
彼らにとって、特にベイビーフェイスとって、ジャクソンファイブ、マイケル・ジャクソンは同郷の憧れのスーパースター。ジャクソンファイブのスターのジャーメインと一緒にWORK出来る事は彼らも喜び、誇りに思ったでしょうが、さらにその上を行く夢の存在のマイケル・ジャクソンから声がかかったのです。
その時、レコーディング最中であったジャーメインと彼らの間でどんなやりとりがあったのかはわかりませんが、普通の感覚なら、餌をぶらさげられてとびついた感はゆがめない。兄、ジャーメインもBabyface達に若干の失望も感じたのではないでしょうか。そして、一方で弟・マイケルにも不快感をもったにちがいありません。自分とレコーディングしている時に、呼びつけるとはどういうことだと。それが「Word to The Badd」のリリックの中にもあります。
君は愛する人のことなんてけっして考えない
君は いつも No1のことだけを考えている
君はどこからスタートしたなんか忘れている
君は欲しいものだけに関心があり その過程なんて気にもしない
自分のことだけしか考えない
君の王座が 大丈夫か大丈夫でないかだけ
「Word To the Badd」は、アルバム収録時には、マイケルへのメッセージソングから、もつれた女性との愛憎のLove Songとしてリリックが書き直されていますが、この箇所は修正されていません。でもこんなリリックで遠まわしに伝えるより、直接マイケルに言えばよかったのにと思うのですが、当時、ジャーメインは、マイケルとコンタクトを取ることができなかったそうなのです。その辺の真偽はわかりませんが、インタビューでそう答えていた記事を見ました。
次回、「Word To the Badd」のリリックをより分析します。招かれたLA&BABYFACEも、またなぜ憧れのマイケル・ジャクソンを非難する曲をジャーメインと作り上げたのか?
さらに時は流れ、マイケル死後、この時の経緯をジャーメイン自身、そしてプロデューサーで後にレーベルのCEOとして大活躍するLAリードが自伝の中で振り返っているのです。
-後編へ続く-
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