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◆ マイ・フレンド・マイケル〈後編 〉マイケルの死のカウントダウンは1993年からはじまっていた。なぜマイケルは50歳という若さで死ななければならなかったのか・・・ [著書]


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 マイケル・ジャクソンの命日、6月25日にあえてこの重く向き合うことがつらいテーマを取り上げました。フランク・カシオが執筆した『マイ・フレンド・マイケル』、30歳の年齢差ではるけど、彼はマイケルの身近にいつもいてマイケルの理解者でもあった。

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 前回は、作り込まれた『Leaving Neverland』に反論できる内容をこの著書から読み取りました。そして、マイケル・ジャクソンが50歳という若さで、不本意な死をとげなければならなかったのか?というものもこの著書から読み取ることができました。

 2009年6月25日、ニュース速報で流れたマイケルの訃報を聞いたとき、突然でとても信じる事ができませんでした。自ら久々に表舞台に登場し『This Is It』公演を高らかに発表したばかりで、マイケル復権に向けて動き出していた矢先だったからです。しかし、こうして冷静に振り返って情報を分析したどっていくとマイケルの死は必然のように思えてきました。
 
 なぜフランク・カシオの著書からこの事を読み取れるかというと、フランクは、マイケルの息子的な立場から、理解者へ、さらに個人秘書、片腕として、一つの体しかないマイケルにかわって、時にはマイケルの目となり耳となり、ある意味スパイ的な役割も担い動いていたからです。こうしてマイケルの置かれている状況を肌で感じていたのです。時にはフランク自身が防波堤にもなったりもした。
 1998年、ハイスクール卒業後、18歳になったフランク、就職もせず将来が定まっていなかった彼を、マイケルは韓国で開催していたマイケル・ジャクソン&フレンズ(マライア・キャリーや
オペラのパヴァロッティ等も参加)というイベントに呼び寄せ、自身の身の回りの世話とサポートの依頼をする。これがフランク・カシオが最初に関わったビックイベントだった。
 フランクはマイケルのマネージャー、そしてその後、代理人のような立場にもなっていきます。フランクはマイケルにこう言われます。「他の人にさせる事もできたけど、あえて君を選んだ。君には大きな可能性があり、成長するところをみたい」と。さらに「力のあるポジションについた君に、多くの人が嫉妬するだろう。中には僕たちを仲違いさせようとする人もいるだろう。でも、ぜったいにそんなことにはならないと」と。しかし、マイケルのこの言葉は3年後に的中する事になるのですが。
 
 
そして、晩年のマイケルの置かれた状況とその心情についてここまで記している著書はないと思います。マイケルが発した言葉がそこにあります。フランク・カシオの主観も入っているとは思いますが、フランクはバランス感覚のある人だと感じます。偏った見方をしていないのを文脈からも感じます。私は、これまでもいろいろなマイケルに関する本や、情報、海外で制作されたCS等でも放送しているドキュメンタリー等、数多くのものにふれていますが、そこで感じていた晩年のマイケルの置かれた状況とフランクの言葉は合致するのです。

 飛行機に乗ることが多かったマイケルですが、フランクにこう述べて、彼もはっきり覚えているという言葉。「僕と飛んでいるときは墜落の心配はしなくていい。僕は飛行機事故じゃぜったい死なない。死ぬときは銃で撃たれるんだから」と。マイケルは事あるごとにこの事を言っていたといいます。マイケル自身、愛する人に囲まれて安らかに眠るような死を迎えれることはないと本能的に感じていたのでしょうか。
 
晩年のマイケルは、人間不信と苦悩の中にいるように思えます。そんな中でも、授かった3人の子どもたちはマイケルの救いであり、癒やしであり希望であったことも感じることができます。
 

 個人的に思うのは、マイケルが35歳の時、1993年8月のチャンドラー事件、あの虚偽の告発からマイケルの死へのカウントダウンは始まったように思います。ジョーディー・チャンドラーという13歳の少年が、精神科医にマイケルに性的虐待をされたと述べたことを発端に検察が動き出すことになります。しかし、これは父親のエヴァンによって仕組まれたもので、アミタールという幻覚作用のある自白強要薬を使用したものでした。アミタールはそれまでも司法の場でも問題になっている薬です(この薬を使用した自白は証拠にならないとされている)。マイケルの身辺捜査が始まりますが、そういった物的証拠は一切あがってきませんでした。マイケル自身も、指摘された事項の誤りを証明するため、自身の性器の写真を撮影されるという事までされます。(少年の証言とまったく合ぜす無実の証明にはなりますが)

 最終的に、法廷に立たず30億円近いお金で和解としたのがマイケル側の疑惑を生みます。(和解金と言うより、映画制作に意欲を見せるチャンドラーへの出資金の意味合いが強い)マイケル自身は裁判を希望しますが、民事裁判の拘束は長期にわたり、本人への面談も度々行われる。そしてプライバシーも徹底的にさらされる事になり、マイケルサイドはそれを拒んだ。ニューアルバムの制作も取りかかってほしいし、ツアーにも出てお金をうみだしてほしい、貴重なマイケルの時間を裁判で失うことをよしとしない関係者が多くいました。そして、マイケルは裁判によってこの少年が傷つく事を避けたようにも思います。
 妹のジャネットは、「自分が親だったらお金なんかで解決しない、(子供を虐待した)相手を殺すわ」とまで述べている。子を持つ親として私もお金なんて二の次に思う。でも父親のエヴァン・チャンドラーと組んだ悪徳弁護士はお金にのみ執着した。詳細は下記の書籍にも書かれています。(そしてエヴァンは2009年に自殺している)

救済 マイケル・ジャクソン 児童性的虐待疑惑(1993年)の真相 (ALL THAT’S MJ)

救済 マイケル・ジャクソン 児童性的虐待疑惑(1993年)の真相 (ALL THAT’S MJ)

  • 出版社/メーカー: メディカル パースペクティブス
  • 発売日: 2011/01/13
  • メディア: 単行本

 和解後、実はあのFBIも独自に捜査していたことが後に判明しますが、マイケルに疑わしい事実はなかったという600ページにも及ぶ報告書をまとめています。もし犯罪行為を疑いうようなものが出てきたら、民事で和解していようと刑事告発されたはずです。しかしまったくそういうものがなかったという結論を出しているのです。まさにえん罪です。そしてこういう正しい事実は世に正しく伝わり拡がりません。
 無罪であろうと関係なく、マイケルに対する世間のイメージはここから一変します。それまでもマイケルは少年の心をもった人、おもしろい行動を奇行と評されメディアを賑わしてきましたが、ここを機にそういうレベルの話ではなくなっていき、個人の尊厳と人格を徹底的に叩くような風潮になっていきます。特に本国のUSAでは、ここからマイケルを貶めるネガティブ・キャンペーンが
始まっていった気がします。

 子どもの無限の可能性を信じ、恵まれない子どもたちの支援をしていたマイケルが、児童虐待容疑をかけられるのですから・・・マイケルがどれほどのショックを受けたが想像し難いものがあります。フランクも、自身が記憶する限り1993年の頃から、真っ暗な部屋で鬱々とした状態でいるマイケルを目にすることがあったという事も述べている。

 このチャンドラー事件を起こさせる伏線は黒人アーティストとしてのマイケルの前人未到の成功にあったように思います。
 『スリラー』は世界一のアルバムセールスとなり、1983年度のグラミー賞においては8冠を達成。『BAD』ではアルバムから5曲のNo1シングルをうんだ。黒人として前人未踏の領域に到達したマイケルへの反感をもつ人たちがいたのだと思う。それは先般のミネアポリスの事件から拡がった黒人に対する差別問題で、今でもまだ根強く人種問題は存在しているという事も理解した。
 
 さらに晩年のマイケルの財政問題も、マイケルの死に影響を及ぼしていると感じる。マイケルは音楽のみならず、エンターテイメント、Jay-ZやP.Diddyが成功したようなアパレル系やシューズ、レーベル運営などにも活動範囲を広げていった。さらにライフワークでもある、ネバーランドを軸にした慈善事業や、環境保全活動もある。こうしてマイケル・ジャクソンビジネス帝国が誕生する。
 そこににはいろいろな人間が、いろいろな思惑で関わるようになり、人件費もかかるようになる。マイケル自身も『OFTW』や『スリラー』の頃は、すべての契約書に自分で署名していたといっている。関わるものが多岐にわたり自分一人ではまわせなくなった。フランクに言わせればそこは魑魅魍魎の世界だったと。誰もが心優しいマイケルから搾取しようとしていたと。各々がファーストクラスで地自由に世界を駆け巡り、一流ホテルに滞在する割には見合った成果も出ない。毎年、マイケルの邸宅であり多くの子どもたちを招いたアミューズメントパークのようなネバーランドの維持費は年間6億円を超えた。
 そして裁判によりアルバム制作やツアーにも出れない状況にもなる。過去のストックや印税などはあったとしても支出の方が上回っていった。本をみると2007年時で、年間13億の赤字となっていた。しかし、それを支えていたのが当時で440億円の資産価値があるATVの(ビートルズを主とする)楽曲版権だった。毎年、13億の赤字ときくととんでもないと思うけど、440億のATVの版権に加えて数百億の資産も所有しているのだからすごい。しかし、現金化できるものが手元になかったため、それらを担保に銀行から借金をし、その利子も年々膨らむという悪循環に陥っていた。よく当時、マイケル破産とかいうNEWSがとびかっていたけど、現状はこういう事だったのだと思う。キャッシュはたしかに少なかったが、バランスシート上では十分均衡がとれていた。
 そういった意味でも2001年に発表された『INVINCIBLE』が起死回生のアルバムとなるはずだった。瞬く間にアルバムチャートの1位も獲得し、普通の基準なら大ヒットといっていいアルバムだった。が、マイケル基準で言えば成功とは言えないものだった。制作費もかかりすぎ想定していた当初のセールスには到底及ばず、マイケル帝国の財政の健全化はできなかった。
 そして追い打ちをかけるような、2003年、バシールの悪意あるドキュメンタリー、続くアルヴィーゾ事件。マイケルはさらに追い込まれていく。このままでは担保のATVも失い破産となる。(この辺もマイケルを貶めたい勢力の連動した動きと感じる)
 そんな中での『This Is It』ツアーの発表。特にニューアルバムが出たわけでもなく、唐突の発表だった。その裏には、財政難に追い込まれたマイケルが最後の砦となっていたATVを失いそうな状況に追い込まれていた。Positiveな所では子どもたちに自分のパフォーマンスをみせたかったという思い、さらに地球環境保護のうったえもあった。そして当初、10回という公演が50回に膨らみマイケルにかかるプレッシャーは日に日に増していく。
 最高のパフォーマンスを見せるために休養し、心身ともに万全でいないといけないというのに、眠ることができない。リハーサルとはいえ、そこに集まっているスタッフ、ダンサーに弱った姿を見せるわけにはいかない。慢性化している体の痛みもある。どうしても薬に頼らざるをえない状況になる。そして、マイケルの周囲にはイエスマンしかいなかった。医師も医師の倫理観を失い、麻酔医でもないのに在宅でプロポフォールという麻酔薬を使用する。睡眠剤ではなく手術で使用するような麻酔薬なのです。そして、過剰投与によりマイケルは死を迎える。こうしてみるとマイケルの死は偶然ではなく必然のように思えるのです。

ビートルズATV版権取得の闇 (マイケル27歳・死去の24年前) 

 
19858月、マイケル・ジャクソンは後に音楽出版業界でナンバー・ワンの弁護士とも呼ばれるようになるジョン・ブランカと共同してATVが所有していたビートルズの版権を約48億円で取得します。すごい金額です、マイケルは借り入れをしてこの版権を取得しますが、これは安い買い物でした。すぐに完済し、ATVは毎年自動的にお金生み出すものになります。当時で年間7億円の収益を生む、その金額はさらに年々上がっていく。この後、音楽業界はCD、さらにデジタル時代に入りさらに版権の価値はまし、20年後には1000億以上の資産価値を持つのですから。そしてこのATVの版権が財政難におちいっていくマイケルを支えることにもなります。逆にいうと、ATVがあるから多少の浪費は問題ないという思いも生んだかもしれません。

 一部ではありますが、ビートルズという白人文化の象徴のようなものの権利をマイケル・ジャクソンという黒人アーティストが手にしたことを快く思わない人がいたのは事実です。マイケルは、オノ・ヨーコやポールにも取得の意志を伝えていました。しかし、彼らは大金を投じてまで自分の版権(既に半分の権利は有し、お金も入ってくる)を購入することはしませんでした。
 
購入後、実際にマイケルがビートルズの曲をコントロールする事になります。しかし、彼らがマイケルに対してさらに不快感をもったのが、ナイキのスニーカーのCMにビートルズの「Revolution」の使用を許可したり、他にもアニメ映画やグリーディングカードやおもちゃの時計にも使用許可を出した。ポールやビートルズのファンからしたら、神聖なビートルズの曲の芸術的価値がマイケルによって貶められたと感じたという事です。この出来事は、ATVの購入時以上にマイケルに対しての反感を生んだと思われます。そしてその層はビートルズファンの白人層が主であったと思われます。
 
この後、マイケルは事あるごとにみんながこのATVをねらっていると言うようになります。パートナーであり、ATVの半分の権利を所有していたSONYもマイケルからこの権利を奪おうとしていると思うようになります。それは2001年の『INVINCIBLE』発売時のSONYのプロモーションの消極さでマイケルの不信と怒りは頂点に達します。

 Black Or White」(91)They Don't Care About Us(95) の闇 

 黒人大統領も誕生し、アメリカにおける人種差別は徐々にうすれているのかと、日本にいる私など安易に思っていましたが、今回のミネアポリスでの黒人拘束死事件に端を発した暴動で、根底にあるものは全くなくなっていないのを感じたし、なくなることもないのかとも思いました。
 白人と黒人だと社会的な地位や経済格差は白人が優位。黒人は、ヒップホップでその理不尽さに対して怒りのリリックをのせた。そしてマイケルもアーティストもその楽曲やMusic Videoで人種差別に対する怒りを表現した。マイケル位のIcon的なアーティストが、そういった人種問題に踏み込むこむと、やはり反発も大きい。

DANGEROUS~ザ・ショート・フィルム・コレクション [DVD]

DANGEROUS~ザ・ショート・フィルム・コレクション [DVD]

  • 出版社/メーカー: Sony Music Direct
  • 発売日: 2005/07/20
  • メディア: DVD

 最初に話題になったのが91年のNo1シングル「Black Or White」の映像。90年もマイケルのDecadeと思わせた傑作『Dangerous』からの1stシングルで、制作したショートフィルムは10分に及びます。マイケルが世界を駆け巡りその場所の民族と踊ったり、モーフィングという次々と人々の顔が変わっていく映像が話題となりましたが、後半のパンサーバージョンという荒ぶるマイケルの暴力シーンが問題となります。
 そのシーンの導入部分で、黒豹(ブラックパンサー)がマイケル・ジャクソンになる変身するシーンにまず意図を感じます。ブラックパンサーとは、70年代に黒人解放運動を推進した過激な集団として有名です。ですからこの黒豹というのは、どうみても黒人を象徴的に表現しているとしか思えません。そのブラックパンサー(マイケル)があえて"KKK rule"と書いてある窓ガラスを壊したりするのです。KKKは白人至上主義団体として有名な過激グループです。集団リンチ殺人もいとわない者もいた。

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 最初のバージョンは、KKKやハーケンクロイツ(ナチスのシンボル)が出ていますが、抗議を受けてか現在では修正されてその文字は消され別のものに差し替えられています。このマイケル・ジャクソンの映像で、彼らはマイケルに対して、「黒人の分際で」とさらなる反発と憎悪を抱いたのかもしれません。
 さらに状況をこじらせたのがフィルムに登場するマイケルの肌の色が80年代以前と比較して明らかに白くなっていた事です。それも世の中の誤解を生みます。後に、裁判の中でも医師の診断の元明らかにされますが、マイケルは「尋常性白斑」という皮膚疾患を患っていたのです。
 
 そして、95年の『History』に収録されシングルにもなった「They Don't Care About Us」があります。超ハードエッジな曲で、マイケルらしさも全開です。しかし、ここでリリックの中に「jew me」「kike meという反ユダヤ的な表現があり、メディアでも一斉に取り上げられ非難される。マイケルは差別的な表現である事を知らずに使ったようです(日本人でいえばイエローモンキーとかになるのか)。リリックの響きのカッコよさをねらったように思う。
 事態を重く見たマイケルは、スピルバーグを含めたユダヤ系の知人に自身の擁護を依頼するが、そこまでする人はいなかった。言わなくともマイケルはそういう反ユダヤ主義だと思う人はいなかったのだと思う。しかし、不快に思ったユダヤ系の人たちもいたかもしれない。
 これは考えすぎかもしれませんが、マイケルも親友と言っていたユリ・ゲラーはユダヤ系の人です。2003年にマイケルネガティブキャンペーンの一つであると思うマーティン・バシールによる歪められたドキュメンタリー番組が放送されましたが、マイケルにバシールを紹介したのがこのユリ・ゲラーでした。後にマイケルが作成されたとされる敵対リストの中にもユリ・ゲラーの名前はあり、彼とはこの時を境に絶縁しています。

◆ 薬とマイケル・ジャクソン

 
1998年、マイケルは韓国とドイツでマイケル・ジャクソン&フレンズというチャリティーコンサートを開催しました。そのミュンヘンでの「Earth Song」を歌うマイケルのステージで、マイケルが15メートルまであがった橋からゆっくり降りてくるというシーンがあったようなのですが、そのマイケルの乗っている橋が急降下してステージに激突するという大アクシデントが起きるのです。その衝撃は相当なものだったと思うのですが、マイケルは不屈とも言えるプロ根性で最後までステージに立ち続けます。最後まで歌いきったマイケル。その後、すぐに手配のできた診療所へ向う。奇跡的にも骨折はしていませんでしたが、腰に相当なダメージを受ける。
 
でもこれは本当に事故だったのか??と思うこともある。マイケルも事態を重く見ておりフランクにも指示を出し、深夜3時に、コンサートのプロデューサーであったケニー・オルテガに電話をし、事故の原因を早急に調べるようにと伝える。ケニー・オルデガは、マイケル死後の『This Is It』ツアーのプロデュースも担当した人だ。
 
この腰部の痛みは慢性的なものとなり、この後もマイケルを苦しめる。そしてこの痛みをおさえたのがプロポフォールだった。手術で使うような麻酔薬なのだ。日本で在宅で使うなどありえない薬のよう。相当慎重な管理を要するし、普通、一般的に手に入らないし使う事がないものだ。そしてこのプロポフォールがマイケルの直接の死の原因となった・・・ そして通常麻酔科の医師が使用する薬を心臓専門医のマーレーによって投与され、適切な監視がされずマイケルを死に追いやったのである。自由診療に近いUSAではお金を積めば希望する薬は手に入れる事ができた。

 鎮痛剤は他にもあった。1984年、ペプシのCM撮影時での事故で頭皮に重度の火傷をおったマイケル。その際に処方されたのがデメロールだった。この薬は『Blood On The Dance Floor』の「Morphine」という曲の中でも登場している。悲しいメロディーと激しいビートが交互にやってくる曲。悲痛な歌だけどマイケルの感情が圧倒的な迫力で迫ってくる。この楽曲は、マイケル作品の中でもかなり特別な1曲。尋常性白斑の治療にも強い痛みがともなったという。デメロールは、オピオイド系の鎮痛剤で鎮痛性は強いものの中毒性がある薬として有名で、エルヴィス・プレスリーやプリンスの死因にもなっていると言われている。
 そしてフランクは、マイケルが薬にかなり依存している状態だと気づく。マイケルの側近でもその事にきづいている人は数名だったという。マイケルも相当苦しんでいたという。周囲の期待に応えるには、しっかり休養しないといけない。でも痛くて眠れない。こんなに苦しいことはないとフランクにも話している。
 
マイケルが服用していた薬が、ドキュメンタリー番組の中で登場している。
 
個人の服用薬が表にでるとはなかなかの個人情報でかなり問題ではあると思うけど、事実を追求するには重要な部分ではある。 

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DEMORAL → デメロール:オピオイド系鎮痛剤
  (中毒性があり問題となっている。あのPrinceも依存し、死因とも言われている)
ZOLOFT
→ ジェイゾロフト:うつ病、パニック障害
RITALIN
→ リタリン:ナルコレプシー(睡眠発作ADHD(注意欠陥・多動性障害)
PROZAC
プロザック:うつ病、強迫性障害、摂食障害(日本では未承認)
XANAX
→ ソラナックス:心身症、抑うつ、睡眠障害
DILAUDID
→ ヒドロモルフォン:オピオイド系鎮痛剤
VISTARIL
(注射) → ヒドロキシジン:抑うつ、不安、オピオイド副作用の抑制PRILOSEC → オメプラゾール:逆流性食道炎、胃潰瘍
 
 すごい薬の量だ。抗うつ剤が多い。リタリンってADHDの治療にも使われる。しかし、あ
る意味、マイケルが薬に頼らざるをえない状況になるのは当然のようにも思う。純粋であった人が、これまで信じていたものから裏切られ、陥れられるのだから。フランクもマイケルは信じないことで身を守っていたという。
 マイケルの子どもたちの乳母でもあり、マイケルの母キャサリンの信頼も厚かったグレースはマイケルの服用についても注意をはらっていたようだ。バスルームにある薬の多さに驚いたという。フランクや、マイケルに近い人は、彼女がマイケルの元に留まっていたらマイケルは死ななかったとまで言っている。しかし、彼女はマイケルの元を離れた。マイケルが解雇した。晩年、マイケル陣営に戻ったフランク・ディレオもこの薬物の量とマイケルにいわれるがまま薬を出す医者と調達してくる人間に危機感を抱いていた。ジャクソン兄弟も事態の重大さを認識するもどうにもできない状態が続いた。

 公的な国民皆保険の日本では、診療報酬というルールの中で医療機関の処方に対してある種のチェック機能も働いているけど、完全な自由診療ではないけど、契約診療のような米国では、医師の倫理観と技能の中で薬が出ている現状がある。そして、マイケルの要望に対して、きっちりと「No」といえる医師もいた。しかし、マイケルはそういう医師は解雇し、自分の要望通りの処方をする医師を雇っていき、医師の質も低下していった気がする。プロポフィールのような薬を、自宅で麻酔科医ではない医師が投与、管理するなどまずこの日本ではありえないことだと思う。この薬物問題はアメリカでも深刻なものとして問題となっている。
 マーレーの裁判にマイケルからの録音メッセージが証拠の一部として出されるけど、これがマイケルの声なのか?と思う位呂律がまわらないようなマイケルの声がある。フランクの本にも、睡眠剤とアルコールを一緒に飲んで酩酊するマイケルに直面する場面の記されている。こういう現実があったことは受け止めなければならない。ただ薬に頼らざるを得ない状況を作ったのは、マイケルのせいではないと思うし、マイケルは自分のために薬を使ったというより、我々ファンの期待に応えるため最高のパフォーマンスを見せるためという意識がいつも根底にあったからだと思う。マイケル、もう少しいい加減で生きてもいいじゃないか、そこまで完璧にしなくたってって思ってしまう。でもそこを追求したからこそ、マイケル・ジャクソンは前人未踏の領域にまで登り詰めたとも思う。

 ◆ マイケルの財政状況とネバーランド

 幼少の頃、ネバーランドに招かれたフランク、そこはマイケルの精神世界が現象化されたような美しい世界でネバーランドに魅了される。子どもだけではない。大人も童心に返り純粋な心が呼び戻される場所だった。そして、彼はそれを管理する立場にもなる。

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 ツアーや外に出ることが多かったマイケルにとって自分の家でもあるネバーランドは癒やしの場所であったけど、そこにいることも少なかった。ただし維持費と常勤50名のスタッフの人件費や維持費は年間66千万かかっていたという。にも関わらず、庭の草木がベストの状態を保たれていなかったり、乗り物が動かなかったりという事があったよう。マイケルがいない間、彼らはとても給与に見合った仕事をしていなかったのだ。マイケルはこの事に非情に不満をもっていたという。フランクはここから手をつけた。
 結局、管理人の女性に問題があり、怠慢な仕事と公私混同もひどい事がわかった。後に解雇されますが、それを逆恨みし、この女性がマイケルを児童虐待をしていたと証言するようなこともするのです。
 フランク・カシオは、ビジネスの才覚もあるのを感じる。組織の事がわかってくると、スタッフはバラバラに動き、よくわからないような契約をとったり、バッティングもしたりしたようだ。ファーストクラスで世界中を飛び回る割には成果も出ない。携帯電話の請求書は月500枚も来るような状況だったという。
 フランクに賄賂のようなものを渡す人間もいたそうだが、彼は受け取らなかったという。マイケルの生きている世界を知れば知るほど、誰もが心優しいマイケルから搾取しようと手ぐすね引いていることがわかったという。身近な関係者の中にもそういう人間がおり、ほとんど毒蛇の巣に住んでいるようなものと表現している。そうした世界では、マイケルは人を信じない事で身を守っているのを感じたという。
 ただATVでビジネス的な大成功を経験したマイケルだけど、その後、マーベル(マイケルはスパイダーマンが大好きだった)やピクサーの買収にも手を伸ばすもビックな契約は勝ち取ることができず。様々な慈善事業もうまくいかなくなっていき、未払いや訴訟も数多くおき弁護士費用も相当かかったとも記されている。
 個人的に思うのは、マイケル、音楽活動や慈善活動だけでは満足しなかったの?という事。ただマイケルのヴィジョンには我々が想像することもできないような壮大な計画もあったように思う。マイケルは史上最高のエンターテイナーだから。 

  Newアルバム『インヴィンシブル』とソニーウォーズ 
                                                    
(マイケル43歳、マイケル死去の8年前)

 19998月、マイケルは後に『インヴィンシブル』として発表される新作の制作にとりかかる。しかし、ニューヨーク、ロサンゼルス、マイアミとレコーディングの拠点も次々に変え最終的には仕上がるのはその2年後となる。
 当時R&BのトップProducerであったロドニー・ジャーキンスが軸となる。当時、ロドニーは、ブランディー&モニカ、デスチャ等やビックヒットを連発していたR&B的なProducerだった。けど、マイケルはロドニーが提示した20曲あまりの曲をぜんぶ没にする。普通ならへこむかProducerをおりる事もあるかもしれないけど、ロドニーはこれによってまた高められ素晴らしい楽曲をうみだす。ピークはとうに過ぎ低迷していたたテディー・ライリーもがマイケルに触れると刺激を受けいい作品を生み出す。最終的に『インヴィンシブル』の候補曲は100曲にも及び、その中から16曲がセレクトされる。

インヴィンシブル

インヴィンシブル

  • アーティスト: マイケル・ジャクソン
  • 出版社/メーカー: SMJ
  • 発売日: 2018/03/21
  • メディア: CD

 『INVINCIBLE』は完成するも、ソニーのプロモーション活動の消極さにマイケルの怒りは頂点に達する。ATV版権は、SONYATVとなり、マイケルとSONYが共同出資をする会社となっていた。ニューアルバムに利益が出なければマイケルは最後の綱のこの版権を手放さざるえをえない状況になるほど財政上は追い込まれていた。

 しかしフランクはソニーにその意図はないと感じていた。これまで2年間のマイケルのスタジオの費用(最高級スタジオを、使用しない間もおさえていた)、最高級の機材、プロデューサー、ミュージシャン、ライター、ホテル、移動費、などの費用は40億円に達していた。かつてはクインシー・ジョーンズのような立場の人が、しっかりと全体のスケジュール管理もしていき、リミットも守れていた。しかしクインシーもはなれ、マイケルが総合監督となると、完璧主義のマイケルはなかなか自身でOKを出すことが困難になっていった。
 2001年の6月に発売された『インビンシブル』。アルバムは瞬く間にチャートの1位を獲得し、世界で1600万枚売り上げた。しかし、マイケルにとってはとても成功といえるものではなかった。シングルとしてはUSビルボードでNo1シングルを生み出す力はなかった。1stシングルの「You Rock My World」がかろうじてTop10に入る。けっこう金のかかっているMVも制作されている。とにかくアメリカではマイケルは過去の人という空気が強かった。『BAD』期以降、USA(北米)でツアーをしておらずリアルなマイケルを知らない世代も増えていた。ただマイケルの考えていたように『OFTW』期の「Workin' Day and Night」を彷彿させつつも現代風のエッジのきいたグルーブの「Unbreakable」を1stシングルにしなかった事には疑問をもつ。その勢いののっての「You Rock My World」ではないのかと。そして「バタフライズ」「Cry」などポテンシャルの高い楽曲は十分にあった。
 さらにマイケルの死後に発表された『XSCAPE』には『インビンシブル』にもれた楽曲も収録されておりそのクオリティーにも驚く。『Invincible』とはまったく違うアルバムが作れるとも思えた。
『インビンシブル』は相当のクオリティーのアルバムなのに、メガヒットという結果はついてこなかった。これだけ心血を注いだアルバムだったのに。マイケルの失望はどれほどのものかと思う。
 『インビンシブル』が大ヒットをしていたらマイケルをとりまく状況はまた変わったと思う。しかし、マイケル復活の手助けにはならなかった。そして当時、誰が想像しただろう!?この『Invincible』がマイケルの最後のオリジナルアルバムになるという事を。

 そして
SONY(社長のトミー・モトーラ)とマイケルの関係は最悪の状況となる。20026月、2階建てバスの屋根に立って「モトーラ、地獄に堕ちろ」とソニー本社を周回して抗議を行う行動に出るのだ。そしてソニーが黒人アーティストに差別的で彼らから搾取しているとまで主張し始めるのです。マイケルクラスのアーティストが人種差別のようなことを口にするのはタブーのようです。かつてのモータウン時代の師、ベリー・ゴーディーにもその事を窘められマイケルも省みます。すでにこの年の3月にフランクはマイケルの元を離れていた。しかし、自分が傍にいたらこんな行動は絶対に阻止したと述べている。このソニーウォーズと呼ばれる出来事は、一般的にはファン的にもマイケル擁護の声が多いけど、個人的には、物事の真理の見極めと洞察力をもっているマイケルならしなかった行動だと思っている。
 
マイケルは、SONYを離れ次作は、別のレーベルから発表する事を決めていた。しかし、マイケル存命中に次のアルバムは出る事はなかった・・・しかし、マイケル死後の翌年2010年、マイケルの遺産相続人となったエステートは、未発表曲を集めた『Michael』を発表。さらにSONYレコードのトップに就任したLAリードが2014年『XSCAPE』を発表。『Dangerous』時に、ある意味マイケルに認められなかったリードが、マイケル死後、ニューアルバムとして銘うってマイケルのアルバム発表するのです。そして「One Sony」という宣伝文句を掲げて、ワールドワイドでプロモーションをしていきます。その光景を天国のマイケルはどう思って見ていたのだろう。

 ◆ バシールのネガティブ番組(20032月放送)と
            
アルヴィーゾ家による偽りの告発(200311月)

『インビンシブル』が大きな成功を収めなかった後、さらなる追い打ちが動き出します。『インビンシブル』がマイケルが描いていたような大きな成功を収めなかったのは、1993年にかけられた児童虐待のイメージが払拭できていなかった部分もあったと思うし、マイケルもそう考えた。そんな中、マイケルの信頼するユリ・ゲラー(後に敵対リストにあがる)に紹介されたマーティン・バシールによるドキュメンタリー番組を受けることとなる。バシールは、あのダイアナ妃のインタビューに成功し、英国王室の闇とダイアナ妃の苦悩をおさめたドキュメンタリー番組を成功させた実績があった。(私も見ましたが)センセーショナルではあったけど、バランスよくダイアナ妃の内面をうちだした番組だったと思う。マイケルもこのインタビューを見て、バシールを信頼しその手腕を高く買っていた部分があったと思う。
 マイケルは、『Invincible』の失敗は、自身のイメージが誤解されていることにあると考えた。この有能に思えたバシールにより真実の自分を知ってもらえれば、世間の誤解もとけると考えた。しかし、これも罠だった。バシールは、最初からマイケルの真実など伝えるビジョンはなかった。夢のようなネバーランドに住む変人マイケル、さらに小児性愛者のイメージもかぶせようとした。編集によってこうも歪められるものなのかと思う。あらためて、これはマイケル死後に作られた『Leaving Neverland』と同じようなスタンスを感じる。
 しかし、この時マイケルは生きていた。同時にマイケル側のスタッフが撮影していた映像がしっかりと残っており、それがそのまま歪められたバシールのドキュメンタリー番組の反証となった。フランクもその編集に関わる。迅速なマイケル側の反証番組により、バシールの悪意は浮き彫りとなった。
 『Leaving Neverland』もマイケルが生きていたら、徹底的な確固たる反証ができていたと思う。告発した2人もマイケルの前であのような証言ができるのかと問いたい。でもマイケルはこの世にいない。そこが『LN』のねらいだったとも感じる。
 バシールは、マイケルの死に際して「私自身、(マイケルの)間違った行為を一度も目にしていません。マイケルのライフスタイルはやや異端だったかもしれませんが、それが犯罪だったとは思いません。そして今、世界は誰よりも偉大なエンターテイナーを失ってしまったのだと思っています」と述べている。いったいこの期に及んで何を意図した発言なのかと思ってしまう。
 バシールの偽りの番組の痛手はこうして最小限にできたけど、たたみかけるように200311月、ネバーランドに出入りし、バシールの番組にもマイケルにトロンとした目で寄り添う形で出演していたキャヴィン・アルヴィーゾがマイケルに虐待をうけたという事で告発をするのです。そして1993年、自爆といってもいいのに、メンツをつぶされたと思っているサンタ・バーバラ群の検察官・トム・スネドンが再び登場する(この人もマイケルの敵対リストにあがる人物)

マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか? (P‐Vine BOOKS)

マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか? (P‐Vine BOOKS)

  • 出版社/メーカー: スペースシャワーネットワーク
  • 発売日: 2009/05/02
  • メディア: 単行本

 
 
そして20051月から公判がはじまる。そして6月、陪審員の構成はマイケルに圧倒的に不利な状況の中でも、全員がアルヴィーゾ側の意見は到底真実とは思えないという判断をくだし、完全無罪の判決がくだる(上記の本は詳細にその流れが記してあります)。
 当然の判決なのだけど、そもそも事実でもないことから起訴され国家権力がまた動いたのです。マイケルはどれだけ恐怖だったかと思う。そしてこの間も、マイケルのCreativeな活動の時間は失われ、時間とお金が浪費されていく。マイケルを取り巻く環境はなかなか好転しなかった。
 そして完全無罪にはなったものの、再び児童虐待という案件で裁判になったという事実ははその後もマイケルに重くのしかかった。裁判の終了後、メゼロウはマイケルにサンタ・バーバラを離れたほうがよいと助言している。そしてマイケルは、ネバーランドを捨てる。ネバーランドを捨てるどころか、祖国を一度捨てる決意もしている。
 「ぼくはひどく疲れた。こんな国にはいられない。アメリカを出る。こんな国にいる義理はないし、みんなクソくらえだ。アメリカとは金輪際関わりたくない。もう戻る気もない」。あのマイケルが母国アメリカに対してここまでの発言をするなんて・・・と思う。そして、イスラム教に改宗していた兄・ジャーメインの支援もありバーレーンへ行くことになる。マイケルは一時はバーレーンに永住する気持ちになっていたかもしれない。2007年に、バーレーンのレーベルからニューアルバムを発表する話もあった。(それが流れてまた訴訟問題にもなったりした)。
 しかしロンドンに滞在したりもし、一つの場所に定住しない旅人のような生活をしている。これもある意味自身を守るための行動だったようにも思う。日本にも来日もしている。その時、マイケルと会って何十万というイベントもあったけど、たぶん現金稼ぎだったのだと今は思う。放浪の旅だったのかもしれませんが、3人の子供たちはいつも一緒だった。マイケルにとっては幸せな時間だったのではないかと思う。

 ◆ フランク・カシオとの決裂と和解 (20023月)

 元はマイケルが見つけてきたというコートとデレクという起業家を、カシオは自身のブレインとして雇い入れる。それまでいた旧陣営と対立する構造もできる。それが、ジョン・マクレーンであり、弁護士のジョン・ブランカであった。特にフランクはジョン・マクレーンとの対立する。ジャネットの成功も導き、ジャクソン家と親交もあり業界を知り尽くしているマクレーンにとってフランクは何もわかっていない素人位に思っていたかもしれない。マクレーンがマイケルのブレインとなってからフランクたちはマイケルから財務から離れるよう指示をうける。フランクはマクレーンらにマイケルが説得させられたと感じる。
 そしてコートとデレクは解雇され、この2人は報酬が払われなかったという事でマイケルを訴える事となる。さらにフランクが、私欲で動いているような告発文がマイケルの元に届いたりもし、マイケルもそれを少し信じてしまう。あれほど信頼関係にあた2人の間に徐々に亀裂が入っていくのです。精神的にもまいったフランクはマイケルの元を離れる決断をする。20023月の事です。
 しかし、フランクはビジネススタッフとしては離れたけど、かつてのような友人として親子のようなマイケルのつきあいは続いた。その後も、マイケルはフランクが望むならいつでも向かい入れるとフランクに話をしている。
 
しかし、マクレーンやジョン・ブランカは、マイケルの代理人として、フランクに業務を通じて知り合ったマイケルの関係者とは今後、一切連絡をとらないようにという書面をマイケルの名義で送り、フランクはショックを受ける。すぐにフランクはマイケルにこの事を伝え、マイケルも自身が知らなかった事だとわびて和解はする。
 今回、マイケルの近くにいた人の言葉としてフランク・カシオの著書をメインに記事を書いていますが、また2003年にマイケルのチーフマネージャーとなったディーター・ウィズナー(1949年生のドイツ人)
という人の著書『素顔のマイケル・ジャクソン』というものもマイケルの状況を分析しマイケルの言葉も交えて記している。

素顔のマイケル・ジャクソン

素顔のマイケル・ジャクソン

  • 作者: ディーター・ウィズナー
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 フランクが離れてからのマイケル帝国の状況を読み取ることができる。ディータの本のなかではフランク・カシオと他のスタッフとの対立は記されていないが、ディータ自身も、マクレーンとブランカに対してビジネス優先でマイケルへの敬意が感じられないと、よい印象は持っていなかった事は書かれている。さらにこの本の中で初めて知った内容で他の著書にも書かれていない最重要事項だと思うのが、マイケルの晩年に接近してきている黒人の宗教団体の存在。この組織は何かよくわからないものを感じた。マイケルは頼っていたみたいだけど。

 
アルヴィーゾ家の裁判の際は、フランクも訴えられることとなる。マイケルの側近者として、フランクもマイケルの無実を証言するべく証言台にたつ気でいたが、マイケルを弁護したメゼロウ弁護士から、裁判の流れの中でマイケルとともに訴えられ、マイケルにも近すぎるフランクの証言はかえってマイナスになると判断され、証言しないよう、さらにマイケルとの接触も一切しないよう指示を受ける。一方のマイケルは、フランクがマイケルのために証言台にたつ意志がないと聞かされ、また大きな亀裂が入るのです。

 この他にも、裁判も終わり落ち着いた2007年の春、マイケルに呼ばれてアイルランドに赴くも、呼ばれたマイケルにアイルランドに来たら逮捕すると告げられるという話もある。
 20
088月、完全無罪を受けた裁判から3年越しにマイケルとフランクは再会する。二人は直接会い、フランクはつもりにつもった思いを涙ながらにマイケルにぶつけ二人の関係は復活する。そしてしばらくカシオ家に滞在しこの時 弟のエディーと制作したカシオトラックと言われているものがマイケル死後に発表された『Michael』に収録されることとなる。
 フランク・カシオとマイケルの関係は映画にできる素材のように思えた。『LN』の反証にもなる作品になるのではとも思う。ただし栄光だけの作品とはなりませんが。マイケルをメディアや無知な人がどれだけ傷つけたか、そしてそれがマイケルの死の遠因となった。

 ◆ マイケルの復権と『This Is It』の闇

 中東のバーレーンに永住するという発言もしていたマイケル、長らくロンドンにも滞在していましたが、20076月、放浪の旅を終え、本国アメリカにもどりロスに住むこととなる。そしてついに音楽活動も再開するのです。
 ソニーとの企画としては2008年に『スリラー25周年記念盤』の発売がされる。あの『スリラー』の楽曲が、ウィル・アイ・アムやエイコン、カニエ・ウェストら新しい才能と融合する。そうはいってもやはりオリジナルには勝てないのだけど。

スリラー 25周年記念リミテッド・エディション(DVD付)

スリラー 25周年記念リミテッド・エディション(DVD付)

  • アーティスト: マイケル・ジャクソン
  • 出版社/メーカー: SMJ(SME)(M)
  • 発売日: 2008/02/20
  • メディア: CD

 エイコンとの「Hold My Hand」もリークされる。Ne-Yo(ニーヨ)もマイケルとコラボしている等発言をし、『Invincivle』に続く新作が確実に進んでいることを思わせた。  

 20093月、久々にマイケルが表舞台に立ち、ロンドンで復活ツアーとなる『This Is It』を行うことを発表する。本国アメリカではなくロンドンでするという事にマイケルの祖国に対する根強い不信を感じます。結局マイケルは、1988年の『BAD』ツアーを最後にUSAでは本土ではツアーをしていないのです(『Historyツアー』のハワイ公演はあり)。『Dangerous』ツアーもUSA開催前にチャンドラー事件がおきたため、それが原因で中止となる。この時マイケルのパフォーマンスを直に目にした世代が多くいたらマイケルの理解も深まったかもしれない。
 ファンの期待は高まりました。『This Is It』ツアーも行い、連動してNewアルバムも発売される空気感が漂っていました。しかし、裏ではマイケル帝国の財政が破綻しかけており、ツアーを行う契約をすることでその危機を乗り越えようとしていました。同時にマイケルのボーカルや体の状態も良くなったというのもあると思います。そして、このツアーを通じて地球の環境危機もうったえようともした。何よりも、成長した3人の子供たちに自分のパフォーマンスを見せたいという思いがマイケルを突き動かしていたと思う。
 マイケルは、リハーサルといえども手は抜かない。リハーサルでできないことが本番でできるはずがないというのが信条だった。それは死後に、我々が見る事となるリハーサルシーンを映像化した『This Is It』でヒシヒシと感じる事ができる。
 リハーサルとはいえ、一緒にステージにたつダンサーやPlayerに無様な姿をみせるわけにはいかない。ここでもマイケルの完璧主義者ぶりがみえる。そして、すばらしいパフォーマンスをするためにはしっかり休まないといけない。しかし、慢性的な体の痛みに苦しみ、精神状態も不安定になる部分もあったのだと思う。そして何よりも眠ることができない。どれほどの苦しさかと思う。しっかりとしたパフォーマンスを見せるために在宅で使用することは考えられない麻酔薬に頼り、そしてそれを管理する医師・マーレイに技能と能力とモラルがなく、2009625日、マイケルはプロポフィールの過剰投与で死をむかえる事になります。
 
 マイケルの死後、マイケルの遺言により遺産は管理団体。エステートに委託されました。そこで中心となったのが、前述のジョン・ブランカとジョン・マクレーンでした。彼らは、ジャクソンファミリーやフランク・カシオとも対立するようになりますが、実際にはマイケルの負債を完済するどころが、マイケルの死後莫大な利益をあげています。2016年度は、ATVをついに売却し860億円の利益もあげています。
 マイケルの死後、リハーサル風景を映画化した『This Is It』を企画したのはこの二人だった。マイケルのファミリーは、リハーサル風景を表に出すことを反対した。兄のジャーメインもこれがマイケルの全力だと思わないでほしいとも述べている。しかし、多くの人にとっては、全開ではないマイケルのパフォーマンスでも十分魅了された。新曲でなくとも1曲1曲の世界観の素晴らしさに引き込まれた。こうしてマイケルの死後に作られた『This Is It』は大成功し、マイケルの負債もなくし、何よりもマイケルのエンターテイナーとしての素晴らしさを、多くの人に知らしめた。マイケルを知らなかった人にもマイケルの素晴らしさを伝えた。
 こうして死後にマイケルの名誉は回復していった。しかし、2019年、ダン・リードによって作りこまれたドキュメンタリー(と呼ぶに値しない)『Leaving Neverland』が制作され、またマイケルの尊厳が傷つけられるのです。死してなおマイケルのネガティブキャンペーンは続くのです。
 
 今回、あらためてマイケルが死に至った流れを自分なりに振り返ってみました。マイケルの苦しさを感じずにいられなかった。しかし一方で、事実をつなぎ合わせる事でマイケルの正当性を証明したいという思いがありました。これらの出来事は、点と点ではなく、一つの線としてずっと結びついているように感じました。マイケルの死後もマイケルの名誉を傷つけたいと思うものがいるのです。死後に『Leaving Neverland』のようなものが出てきたことでそれは確信にかわりました。(さらにこの偽りの作品がエミー賞のドキュメンタリー部門を受賞という。エミー賞は自らその権威を失墜させたと思う。恥を知れと。)そして、それを信じる人もいるでしょうし、その人たちを感情的に責める気持ちもありません。ただし、鵜呑みにするのではなく、マイケルの音楽やその言葉や功績にふれてほしい。そうしたら何が真実かがわかると思います。マイケルの音楽、メッセージは不滅です。
 

マイ・フレンド・マイケル

マイ・フレンド・マイケル

  • 出版社/メーカー: 飛鳥新社
  • 発売日: 2012/06/19
  • メディア: 単行本

コメント(4) 
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コメント 4

かあくん

こんにちは。
ブログ拝見しました。
素晴らしい内容で、フムフム納得して「そんな時期もあったな〜」とか懐かしく思い出しながら読みました!
ありがとうございました。
フランク・カシオさんの本は良い内容ですね!
by かあくん (2020-06-30 09:11) 

amber35

長い内容になりましたが、見ていただいたのですね。ありがとうございます。ただ、読んでいただいて楽しくなるような内容ではないと思います。

この内容に、共感されない人もいらっしゃるのではないかとも思います。フランク・カシオの本も、マイケルの暴露本的な感想をもっている人もいて、カシオ家に対しても不信感をもっている人もいるかと思います。

それでもマイケルの真実がこの本から感じるのです。この振り返りはモヤモヤするよりは自分の中である程度の結論も出せてよかったと思っています。
by amber35 (2020-06-30 20:10) 

西寺郷太

素晴らしいです!僕が考えてきたことと深い場所で一致しています。ありがとうございます。

一点、エヴァン・チャンドラーは少年の実父。少年の名はジョーディです。

いつかお話しできたら嬉しいです。
by 西寺郷太 (2020-07-25 08:51) 

amber35

幅広いネットワークと知識と深い洞察力をお持ちの郷太さんにお墨付きを頂き有り難いです。ありがとうございます。
(フランク・カシオの本の監修もされていらっしゃるし)

以前も別の所でご指摘頂きましたが、ちょこちょこ大事なところ間違えるのでご指摘もありがとうございます。修正致しました。

郷太さんが企画、MCをされたNHK-FMでの『ディスカバー・マイケル』では、多くのマイケルファンが、マイケルの人間性や音楽で楽しく盛り上がれましたが、一方で、マイケルの死に関しては、つらく悲しい現実に向き合わないといけない面もあると思っています。

いつか直にお会いできたらうれしいです。ノーナ・リーブスまたはソロライブ(祝Funkvision発表)に内緒でうかがおうかな!
by amber35 (2020-07-25 10:32) 

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