◆マイケル・ジャクソンとジャクソン兄弟 [ジャクソン兄弟]
2009.8.4Up 今回、大幅加筆、修正
マイケルは6人兄弟の5番目。ジャクソンファイヴのリード・ボーカルとして11歳の時にデビュー。今でこそマイケル・ジャクソンはひとりのアーティストとして頂点を極めましたが、デビューからリアルタイムに感じている人は、ジャクソンファイヴのマイケルという印象があるのではないでしょうか。
マイケルは6人兄弟の5番目。ジャクソンファイヴのリード・ボーカルとして11歳の時にデビュー。今でこそマイケル・ジャクソンはひとりのアーティストとして頂点を極めましたが、デビューからリアルタイムに感じている人は、ジャクソンファイヴのマイケルという印象があるのではないでしょうか。
マイケル・ジャクソンの天才性は、幼少期から家族やレコード会社も感じ取っていたと思いますが、ソロとしてデビューしていたらまたちがった運命がまっていたかもしれません。いや、どちらにしろマイケルの成功は間違いなかったのかもしれませんが、5人グループというスタイル、ジャクソン兄弟の個性とコンビネーションの中で、マイケルの輝きがさらに増した気がします。
ジャクソンファイブは、デビュー曲「I Want You Back」から連続4曲のNo1シングルを生むという伝説を作ります。
ジャクソンファイブは、デビュー曲「I Want You Back」から連続4曲のNo1シングルを生むという伝説を作ります。
一方、兄弟たちです。
マイケル・ジャクソンという世紀の天才アーティストを擁したジャクソン・ファイブですが、マイケルのあまりにも大きな光によって、他の兄弟たちの光が見えなくなった印象も受けます。マイケルがソロとして成功すればするほどその輝きは増していった。
特に三男のジャーメインは、ジャクソン・ファイブにおいてもマイケルとボーカルを分かち合い、当時はセックスシンボル的な位置づけでもありました。
楽器もこなし、曲も作れ、ボーカルも魅力的で、ルックスも良いジャーメイン、80年「Let's Get Serious」(80年ビルボードR&B・年間No1シングル)というビックヒットを放っていますが、マイケルという弟がいなければもっとアーティストとして光り輝いた面もあると思います。(ただジャーメイン自身のプライドの高さも影響している部分はあるかもしれません)
さらに、末弟、ランディーもマイケルとともに「Shake Your Body」(78)や「Lovely One」(80)を制作したのでもわかるように、才能あるブラザーでした。
マイケルは「オフ・ザ・ウォール」で大人のアーティストへと脱皮した印象が強いですが、ジャクソンズ名義の「シェイク・ユア・ボディー」こそがその一歩となった曲だと思います。そして、ランディーの才能がなければ出来上がらなかった曲だとも思います。
一時期、マイケルとランディーは二人でかなりの曲を作った印象です。この曲を収録した78年の『デスティニー』、次作『トライアンフ』は、マイケルとランディーの才能が輝いた作品だと思います。
86年、日本テレビの24時間テレビで来日しステージでパフォーマンスをしたのをたまに思い出す。
長男、ジャッキーはジャクソンスズの3番目のボーカリスト、『Victory』では「Wait」「Torture」とすばらしい楽曲も作り上げている。
サントラに提供した、CHICのバーナード・エドワーズがProduceした「Time Out For The Burglar」(87)でもリードをとっている。
ソロアルバムは個人的に、『Victory』レベルの楽曲がなかった。
長兄のジャッキーと当時のメンバーの最年少マイケルとの年齢差は7歳。ジャクソンファイヴ時代の画面からも、マイケルとジャッキーとのデコボコ具合は微笑ましい。
ジャクソン兄弟の長男だけど、ジャーメインとは違いそんなに前面に出る性格ではない感じ。でも女性にはもてた感じだし、浮名も流して妻の車にひき殺されそうになったというエピソードも。
そして次男ティトは兄弟の中でもミュージシャン魂が全開。
父親が大事にしていたギターを勝手に使い弦を切ってしまう。父親の逆鱗にふれる所、そのギタープレイを披露し、父親に自分たちの音楽的才能を気づかせたきっかけを作ったのがティト。
このように兄弟それぞれも才能豊かでヒット曲も生んでいる。
姉妹としては、リビー、ラトーヤ、そしてジャネットの3人がいます。
マイケルも、デビューしてからも「ジャクソン兄弟あっての自分」という思いがあったと思います。しかし、成長するととともに、成功するにつれて自分のスタンスと兄弟たちとの折り合いをつけるのが難しくなってきます。
それはステージでの演出だったり、楽曲選びや曲のアレンジだったりしたのだと思います。
一方、兄弟は、マイケルが前人未到の成功を収めようとマイケルはジャクソンズの一員だという思いもあったように思います。インタビューでも「マイケルに嫉妬しないの?」みたいな意地悪な質問にも「マイケルの成功を心から喜んでいる」と返している。
そのように兄弟を教育したのが偉大な母、キャサリンだったようにも思います。
楽器もこなし、曲も作れ、ボーカルも魅力的で、ルックスも良いジャーメイン、80年「Let's Get Serious」(80年ビルボードR&B・年間No1シングル)というビックヒットを放っていますが、マイケルという弟がいなければもっとアーティストとして光り輝いた面もあると思います。(ただジャーメイン自身のプライドの高さも影響している部分はあるかもしれません)
さらに、末弟、ランディーもマイケルとともに「Shake Your Body」(78)や「Lovely One」(80)を制作したのでもわかるように、才能あるブラザーでした。
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
- 発売日: 1989/12/15
- メディア: CD
マイケルは「オフ・ザ・ウォール」で大人のアーティストへと脱皮した印象が強いですが、ジャクソンズ名義の「シェイク・ユア・ボディー」こそがその一歩となった曲だと思います。そして、ランディーの才能がなければ出来上がらなかった曲だとも思います。
一時期、マイケルとランディーは二人でかなりの曲を作った印象です。この曲を収録した78年の『デスティニー』、次作『トライアンフ』は、マイケルとランディーの才能が輝いた作品だと思います。
86年、日本テレビの24時間テレビで来日しステージでパフォーマンスをしたのをたまに思い出す。
長男、ジャッキーはジャクソンスズの3番目のボーカリスト、『Victory』では「Wait」「Torture」とすばらしい楽曲も作り上げている。
サントラに提供した、CHICのバーナード・エドワーズがProduceした「Time Out For The Burglar」(87)でもリードをとっている。
ソロアルバムは個人的に、『Victory』レベルの楽曲がなかった。
長兄のジャッキーと当時のメンバーの最年少マイケルとの年齢差は7歳。ジャクソンファイヴ時代の画面からも、マイケルとジャッキーとのデコボコ具合は微笑ましい。
ジャクソン兄弟の長男だけど、ジャーメインとは違いそんなに前面に出る性格ではない感じ。でも女性にはもてた感じだし、浮名も流して妻の車にひき殺されそうになったというエピソードも。
そして次男ティトは兄弟の中でもミュージシャン魂が全開。
父親が大事にしていたギターを勝手に使い弦を切ってしまう。父親の逆鱗にふれる所、そのギタープレイを披露し、父親に自分たちの音楽的才能を気づかせたきっかけを作ったのがティト。
2016年、63歳にしてジャクソン兄弟の中でも最後のソロデビューをかざる。ティトのギターplayも光るけどボーカルもいい感じ。これまでこんなに前面に出て歌うことがなかったのでこんなに歌えるんだと驚きもした。
アルバムからのシングル、ファレルっぽいグルーブ「Get It Baby」はR&B-29位でチャートインもはたす。アルバムもティトの音楽センス(リズムアレンジ)が光る1枚。
ティトの3人のイケメン息子から結成した3Tは、ジャクソンのDNAが次世代にも受け継がれているのを感じた。
アルバムからのシングル、ファレルっぽいグルーブ「Get It Baby」はR&B-29位でチャートインもはたす。アルバムもティトの音楽センス(リズムアレンジ)が光る1枚。
ティトの3人のイケメン息子から結成した3Tは、ジャクソンのDNAが次世代にも受け継がれているのを感じた。
このように兄弟それぞれも才能豊かでヒット曲も生んでいる。
姉妹としては、リビー、ラトーヤ、そしてジャネットの3人がいます。
マイケルも、デビューしてからも「ジャクソン兄弟あっての自分」という思いがあったと思います。しかし、成長するととともに、成功するにつれて自分のスタンスと兄弟たちとの折り合いをつけるのが難しくなってきます。
それはステージでの演出だったり、楽曲選びや曲のアレンジだったりしたのだと思います。
一方、兄弟は、マイケルが前人未到の成功を収めようとマイケルはジャクソンズの一員だという思いもあったように思います。インタビューでも「マイケルに嫉妬しないの?」みたいな意地悪な質問にも「マイケルの成功を心から喜んでいる」と返している。
そのように兄弟を教育したのが偉大な母、キャサリンだったようにも思います。
兄弟の成功の大小に関係なく分け隔てることなく愛を注いだ。
ダンスとボーカルがうまくいかない四男・マーロンをジャクソンファイブから外そうとした父・ジョーに対して、「口を動かしてるだけでもいいから、兄弟と同じ舞台に立たせなきゃだめ」と強く反対します。兄弟の一人に一生残る心の傷を残す成功に意味はないという母親の強い愛情です。
79年の『オフ・ザ・ウォール』の成功の後、マイケルとブラザーは翌80年、ジャクソンズとして『トライアンフ』を作り上げます。マイケルも当時の雑誌のインタビューで「次のツアーは『オフ・ザ・ウォール』と『トライアンフ』を組み合わせた最高のステージにしたい」という、あくまでもジャクソンズをベースにした発言がみれます。
しかし『スリラー』の前人未到の成功の後、マイケルのある意味抑えていた思いも解放されたのかもしれません。マイケルとジャクソンズとの関係はこの後から決定的に変わったと思います。
マイケルの活動は音楽のフィールドだけでは収まらなくなった。ジャクソンズのマイケルとしての活動は実質不可能だったと思います。そしてジャクソンズとしての音楽と自分の目指す音楽との区分けも難しかったのではないかと思うのです。
84年の『Victory』は、『スリラー』の後のマイケル・ジャクソンのシーン登場となる作品で大きな注目を集めます。私もリアルタイムに購入したアルバムとなります(当時はLPとカセットを買った)
このアルバムのセールスは瞬く間に200万枚を超えますが、アルバムチャートの最高位は4位。落ちるのも早かった。シーンの期待とは裏腹に、マイケルがリードをとる曲は3曲。後は、兄弟たちが手がけボーカルをとる曲が収録されます。
正直なところ、リスナーが求めているのは、ジャクソンズとしてのマイケルではなく、マイケル・ジャクソンだったと思います。当時、私も『Victory』では、マイケルがほとんどリードをとると期待していたのに、兄弟がそれぞれのソロ作をもちよった形に残念に思ったことを覚えています。(この後、ジャクソン兄弟のそれぞれの曲の素晴らしさもわかり、今ではこのアルバムはすごくお気に入りなのですが)
アルバム発表と同時に全米ツアーも行われます。で、全米の主要の14都市を周り55回の公演が行われ、1,000億円近い金が動いたとされます。一時期兄弟たちと離れてソロ活動をしていたジャーメインも復帰し、今となっては兄弟6人揃っての最後のツアーが、このビクトリーツアーとなります。ツアー収入をきっちりブラザーで均等に分け(マイケル自身の収益は慈善団体へ寄付された)、兄弟への恩義を果たすとマイケルはグループを脱退します。
その後、マイケルは、『BAD』(87年)を発表し、世界ツアーに出ます。バックを固めるのは、選び抜かれた一流ダンサーたちですが、そのダンサーたちより兄弟達とステージで躍動するマイケルに魅力を感じてしまいます。
この後、マイケルは自身の理想を求めてソロ活動に邁進します。
そこからある意味孤独感も増していった印象も受けます。
89年、マイケルとさらにマーロンも脱退し4人になったジャクソンズ。ジャーメインがリードをとり『2300 Jackson Street』という外部のTopプロデューサー(LA&BABYFACE、Teddy Riley)と自分たちで手掛けた作品をバランスよく組み合わせたアルバムを発表します。
ダンスとボーカルがうまくいかない四男・マーロンをジャクソンファイブから外そうとした父・ジョーに対して、「口を動かしてるだけでもいいから、兄弟と同じ舞台に立たせなきゃだめ」と強く反対します。兄弟の一人に一生残る心の傷を残す成功に意味はないという母親の強い愛情です。
79年の『オフ・ザ・ウォール』の成功の後、マイケルとブラザーは翌80年、ジャクソンズとして『トライアンフ』を作り上げます。マイケルも当時の雑誌のインタビューで「次のツアーは『オフ・ザ・ウォール』と『トライアンフ』を組み合わせた最高のステージにしたい」という、あくまでもジャクソンズをベースにした発言がみれます。
しかし『スリラー』の前人未到の成功の後、マイケルのある意味抑えていた思いも解放されたのかもしれません。マイケルとジャクソンズとの関係はこの後から決定的に変わったと思います。
マイケルの活動は音楽のフィールドだけでは収まらなくなった。ジャクソンズのマイケルとしての活動は実質不可能だったと思います。そしてジャクソンズとしての音楽と自分の目指す音楽との区分けも難しかったのではないかと思うのです。
84年の『Victory』は、『スリラー』の後のマイケル・ジャクソンのシーン登場となる作品で大きな注目を集めます。私もリアルタイムに購入したアルバムとなります(当時はLPとカセットを買った)
このアルバムのセールスは瞬く間に200万枚を超えますが、アルバムチャートの最高位は4位。落ちるのも早かった。シーンの期待とは裏腹に、マイケルがリードをとる曲は3曲。後は、兄弟たちが手がけボーカルをとる曲が収録されます。
正直なところ、リスナーが求めているのは、ジャクソンズとしてのマイケルではなく、マイケル・ジャクソンだったと思います。当時、私も『Victory』では、マイケルがほとんどリードをとると期待していたのに、兄弟がそれぞれのソロ作をもちよった形に残念に思ったことを覚えています。(この後、ジャクソン兄弟のそれぞれの曲の素晴らしさもわかり、今ではこのアルバムはすごくお気に入りなのですが)
アルバム発表と同時に全米ツアーも行われます。で、全米の主要の14都市を周り55回の公演が行われ、1,000億円近い金が動いたとされます。一時期兄弟たちと離れてソロ活動をしていたジャーメインも復帰し、今となっては兄弟6人揃っての最後のツアーが、このビクトリーツアーとなります。ツアー収入をきっちりブラザーで均等に分け(マイケル自身の収益は慈善団体へ寄付された)、兄弟への恩義を果たすとマイケルはグループを脱退します。
その後、マイケルは、『BAD』(87年)を発表し、世界ツアーに出ます。バックを固めるのは、選び抜かれた一流ダンサーたちですが、そのダンサーたちより兄弟達とステージで躍動するマイケルに魅力を感じてしまいます。
この後、マイケルは自身の理想を求めてソロ活動に邁進します。
そこからある意味孤独感も増していった印象も受けます。
89年、マイケルとさらにマーロンも脱退し4人になったジャクソンズ。ジャーメインがリードをとり『2300 Jackson Street』という外部のTopプロデューサー(LA&BABYFACE、Teddy Riley)と自分たちで手掛けた作品をバランスよく組み合わせたアルバムを発表します。
アルバムには1曲のみボーカル参加したマイケルですが、「すばらしい仕上がり」と太鼓判を押します。が、ジャクソンズ名義のアルバムでは最低のセールスとなります。大衆は、マイケルのいないジャクソンズに注目しません。
90年代に入ると、皮膚の病気により、肌が白くなったマイケル。兄弟たちでさえマイケルと連絡を取ることもできなくなり、マイケルの病気の真実を知らないまま、ジャーメインは92年のソロアルバムで「Word To The Badd」というマイケルへ痛烈なメッセージソングを送った。兄として愛から生じたメッセージだったと思うけど、そのリリックはマイケルを傷つけた。弟の才能に嫉妬した兄、白人になろうとしているマイケル・ジャクソンは身内からも非難されていると、メディアは取り上げた。その事で、兄弟間に決定的な亀裂が入りかけたこともあった。
しかし、93年8月、突然マイケルに襲いかかった悪意ある虚偽の告発でマイケルを取り巻く環境は一変します。メディアは、裏もとらずセンショーナ部分だけをとりあげ、おもしろおかしく虚偽の情報をたれながした。そんな状況の時、マイケルの防波堤となったのがジャーメインであり他のブラザーだった。苦境に陥ったとき、兄弟たちが全力でマイケルを守った。
なかなか音楽活動どころか、正常な日常生活を送る事もままならなくなったマイケルですが、01年久々のソロアルバム『インヴィンシブル』を発表。それにあわせてマイケルソロデビュー30周年記念ライブが行われ、ジャクソンズが久々に集います。兄弟から離れていたマイケルですが、やっぱ兄弟とのパフォーマンスでマイケルは輝くのをあらためて感じました。
03年、またマイケルにまた悪夢がふりかかる。末期ガンの少年を助けたいという思いで接点をもった家族の母親がマイケルを訴えるのです。ちょっと調べればこの母親がどれだけ胡散臭い人間で、有名人にたかる危険人物としても有名だった事がわかるのに、メディアはまたセンセーショナル部分だけをとりあげマイケルの尊厳を傷つけた。
ランディーが探してきたというメゼロウ弁護士は、相手の矛盾を見事につき、事実を明確にした素晴らしい弁護でマイケルは完全無罪を勝ち取ります。当然といえば当然の結果ですが、陪審員制度の中ではマイケルには不利とも言える人種構成でした。しかしすべての案件で無罪となります。この時も、ジャーメインをはじめ兄弟、家族が全力でマイケルを守った。マイケルの潔白は証明されますが、マイケルの精神的なダメージは相当なものだったと思います。
そして、マイケル復活宣言の狼煙となる『This Is It』ツアーの発表後、2009年6月25日、突然のマイケルの訃報です。この後、ファミリーのスポークスマンとなったのは長男のジャッキーではなくジャーメインでした。
マイケルの葬儀の時、「自分の一部がマイケルと共に逝ってしまった」と涙で言葉にならないコメントをするマーロンに兄弟たちがよりそう姿を見て私も涙をこぼさずにはいられませんでした。
マイケルと兄弟たちはやはり深い絆で結ばれていたと思います。
2012年12月、マイケルのいないジャクソン4兄弟(ランディーもいない)の来日公演を体感しましたが、すばらしいパフォーマンスでした。ステージにブラザーとともにマイケルは立っていたに違いない。
マイケルというとてつもない太陽によって、兄弟たちの輝きが見えにくくなったように感じますが、一人ひとりすばらしい才能と個性をもったアーティストです。
今後、ブラザー達の紹介もしていきたいと思います。
なかなか音楽活動どころか、正常な日常生活を送る事もままならなくなったマイケルですが、01年久々のソロアルバム『インヴィンシブル』を発表。それにあわせてマイケルソロデビュー30周年記念ライブが行われ、ジャクソンズが久々に集います。兄弟から離れていたマイケルですが、やっぱ兄弟とのパフォーマンスでマイケルは輝くのをあらためて感じました。
03年、またマイケルにまた悪夢がふりかかる。末期ガンの少年を助けたいという思いで接点をもった家族の母親がマイケルを訴えるのです。ちょっと調べればこの母親がどれだけ胡散臭い人間で、有名人にたかる危険人物としても有名だった事がわかるのに、メディアはまたセンセーショナル部分だけをとりあげマイケルの尊厳を傷つけた。
ランディーが探してきたというメゼロウ弁護士は、相手の矛盾を見事につき、事実を明確にした素晴らしい弁護でマイケルは完全無罪を勝ち取ります。当然といえば当然の結果ですが、陪審員制度の中ではマイケルには不利とも言える人種構成でした。しかしすべての案件で無罪となります。この時も、ジャーメインをはじめ兄弟、家族が全力でマイケルを守った。マイケルの潔白は証明されますが、マイケルの精神的なダメージは相当なものだったと思います。
そして、マイケル復活宣言の狼煙となる『This Is It』ツアーの発表後、2009年6月25日、突然のマイケルの訃報です。この後、ファミリーのスポークスマンとなったのは長男のジャッキーではなくジャーメインでした。
マイケルの葬儀の時、「自分の一部がマイケルと共に逝ってしまった」と涙で言葉にならないコメントをするマーロンに兄弟たちがよりそう姿を見て私も涙をこぼさずにはいられませんでした。
マイケルと兄弟たちはやはり深い絆で結ばれていたと思います。
2012年12月、マイケルのいないジャクソン4兄弟(ランディーもいない)の来日公演を体感しましたが、すばらしいパフォーマンスでした。ステージにブラザーとともにマイケルは立っていたに違いない。
マイケルというとてつもない太陽によって、兄弟たちの輝きが見えにくくなったように感じますが、一人ひとりすばらしい才能と個性をもったアーティストです。
今後、ブラザー達の紹介もしていきたいと思います。
すばらしい記事をありがとうございます。
by おヒロ (2018-07-12 08:52)
ありがとうございます。また兄弟姉妹を一人ずつPick Upしていく記事もUpしていきますのでまた見ていただくとうれしいです。
by amber35 (2018-07-19 06:59)